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でも、ずるいんですよ私

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お茶会にいらしてくださった

Yさんが書かれたブログ記事を転載させていただきます

この記事を読まれたら、大きな何かを受け取っていただけると思います

Yさん 素晴らしいシェアをありがとうございます。

Yさんは、もう与えていますよ。

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今日もまっくす 主催の女子会じゃ司会

ではなく御茶会セッションに行ってきましたピエロ

ほくみさん に出会えて感謝感謝です。

会を主催してくれているまっくすに感謝感謝ですニコ

さてさて・・・前回の御茶会での気付きはこちらを参照 してくださいアオキラ

今回の気づき・・・私って心が広い・・・らしい。

まだ素直に受け取れてないけど・・・

そういう見方もあるんだなぁって気がした。

両親に対する感情は結構変化していると思う。

実は、父が亡くなったとき火葬場で

最後のお別れをした時の顔が今でも忘れられない。

笑ってたんです、父が。

科学的に言うと、火葬場にいる時は

死後硬直が溶けてくる時間帯なので

笑ってる顔に見えると言われていますが、

それを抜きにしても、父の顔が笑っていたことで

高校2年生だった私は少しだけ気が楽になったことを覚えてます。

色々ありましたね、こう考えると・・・

両親のことは時間をかけてでも少しずつ思いを変えていきたいと感じてます。

そして、もう一つ。

卒業しないといけないことがあります。

それは一番大切な人との事。

彼とは看護学生時代、準夜勤帯に

バイトに行ってた病棟の患者さんとして出会いました。

何がきっかけかは全く覚えてないのですが、

知らないうちに2人で会うようになり、

花火大会に行ったり買い物に行ったり日光までドライブに行ったり・・・

車の好きな人で本当に車でしょっちゅう出かけてました。

でも、ずるいんですよ、私。

この人は患者さんなんだから・・・って線を引いてた。

本当は、傷つきたくなかったんです。悲しい思いをするのがわかってたから。

いつかはいなくなってしまう・・・遠い未来じゃなく数か月単位でいなくなるって。

これは、彼が亡くなってから彼の両親に聞きました。

彼の病気は、私と出会った時には余命3か月と言われてたそうです。

家に帰れる見込みは少ないとまで。

でも、1年彼は生きてました。いつも私の事を両親に話していたそうです。

薬の効果があり、一時退院した時に病院以外で会ってました。

1か月後、彼の首のリンパ節がパンパンに腫れて再入院。急性転化でした。

今回は本当にムリかもしれないので覚悟してほしいと説明されたそうです。

でも、ここでも放射線治療の効果がありリンパ節は小さくなりました。

この時に、骨髄移植の話が出ました。妹さんやいとこ、

親戚みんながHLAタイプの検査を受けました。

一人だけ合う人がいたんです。すぐ下の妹さん。

でも、妹さんは妊娠中なのでドナーとしては対象外となりました。

骨髄バンクに登録した時点で、

本人に病名の告知と骨髄移植を前提にした転院の話をしたそうです。

この当時に彼のお母さんと話した事がありました。

その時に、骨髄移植はできないのか主治医に聞いてみてはどうかって。

その一言で、HLA検査が始まったようです。

家族でもないのに出しゃばったことをしました。

そのあと、彼が一時帰宅をした時にいっしょに日光へ行きました。

その時に、『結婚したいから、絶対に病気治す』って言ってくれたんです。

なんて私って最悪な人間なんだろうって悔みました。

この場からいなくなりたいって思いました。

このすぐ後ぐらいに3度目の入院になりました。

彼の病室に通うのが私の日課になってました。

学校の院内実習の最中、辛いことがあって院内で会った時も、

泣いてる私に背中を貸してくれました。

学校も実習もバイトも休みのある日。

いつものように病室へ行きましたが、

1階のロビーで話そうってことになりました。

骨髄移植の事でした。

妹のHLAがあってたこと、でも妹さんは妊娠中であること、

骨髄移植をするためには別の大学病院へ転院しなくてはいけないこと・・・

一時退院した時に本人を交えて家族全員で話し合ったそうです。

『妹の妊娠を俺のために中断させることはできないし、

足の悪いおふくろをあんな遠い病院に通わせるわけにはいかない。

じいちゃんやばあちゃんもいるし。だから骨髄移植はやらない。

家族と話し合ってそう決めたから。』

って。何にも言えなかった。何も言える立場じゃないし。

そう決めたんならしょうがないって思うしかなかった。

このころから日々彼の体力は弱っていきました。

でも、毎日バイトの前に病室に行ってました。

泣くことしかできなかった。いつもいつも泣いてました。

そのたびに頭をなでられてました。

彼が旅立つ日、病棟のナースが寮に連絡をくれました。

心臓が止まるその瞬間までそばにいることができました。

葬儀の日も、家族の皆さんが私を親族と同じ席に座らせてくれました。

情けない、ただただ自分が情けなかった。

本気で向き合ってくれてた人を真正面から受け止められなかった。

このあとは前のブログにも書いたとおり、

感情を無理やり押し込んで蓋をして国家試験が終わって、

合格してから、彼の墓前に報告に行きました。

ホントにいつもいつもたくさんの愛をもらってたのに

しっかりと受け止めてない私って最悪だよねって

ここでも自分を責めてましたよね。

なんか、私っていつももらってばっかり。

色んな方々からたくさんもらってばっかりです。

両親だけじゃなく彼からももらってたのに

もっともっとちょ~だ~いって言ってたんですね。

カツカツじゃなかった、ホントはいっぱいいっぱいもらってたんですね。

そこに気がつくまでいったいどれだけに時間が必要だったんだろう。

与えられる人になるのかなぁ・・・私。

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